カツオのタタキ(カツオの語源おまけ)
土佐の国(高知県)は古くから漁業が盛んで、釣り漁や網漁などで出荷用の魚種を捕獲し、それを近畿圏や関東方面の大消費地に向けて加工し輸送する。
しかし網漁などでは、目的の魚ではない生き物がしばしば混漁される。
磯魚などはすぐに内臓を処置しておかないと身に磯臭さが回ってしまい商品とするのは問題があるため、土佐の漁師さんは船上でのマカナイ飯や家庭での日常のおかずとして、色々な種類の磯魚を、適切な処置と様々な調理法によって美味しく食してきた歴史がある。
刺身にする前の、皮を引かず冊の状態で、皮目に熱湯をかけて変性させてから冷水に取り刺身に切る「霜降り造り」や冊に金串を刺して直火で皮目を炙り冷水で粗熱を取って刺身にする「焼き霜造り」などは、皮が厚く皮と身の間に脂があって少し皮に臭みがある魚に有効だ。
更に、「酢味噌」「タレ」「柑橘酢」「ポン酢醬油」などを掛け回してから食べると、刺身醤油を浸して食べる通常方法にはない、臭みを消す効果がある。
また「ネギ」「ニンニク」「タマネギ」「ミョウガ」などの薬味を大量に乗せて一緒に食すのも臭みを消す。
これらの手法を組み合わせ、魚の特徴に沿って個人の好みに合った刺身の調理法を工夫するのが肝心だ。
『徒然草』には鎌倉時代末期から南北朝時代の世相が書き残されている。
第119段に「鎌倉の沖で獲れるカツオは、この地方では高級魚として近頃流行している。しかし鎌倉の年寄りが言うには、俺たちが若い頃は人前に出す魚ではなかった。頭などは下部の民も食べずに切り捨てていた、と言っている。」 過去では市場にて出されなかったカツオが、流通の進歩とともに徐々にカツオの鮮魚として一般の人々での消費が始まり、更に高級魚として需要が進んだ事が分かる。
時代が更に進むと「カツオのたたき」は鰹節の生産に伴い発生する余剰のカツオの有効活用として大成功となっただけではなく、江戸時代にカツオの刺身の大ブームを巻き起こした。
江戸っ子は「初ガツオ」を先を争って買い求め高値が付いたと当時の記事や川柳に残り、この影響は現代日本文化にも未だ色濃く残ってる。
カツオのたたきの製法の由来には色々面白い伝説が残っていて、代表的なものが「山内一豊の禁令由来説」だ。土佐藩の初代藩主として長曾我部氏に代わり国主となった山内一豊が、多発する食中毒を防止する目的で「生のカツオを食べるのを禁止」と申し渡したが、どうしても刺身を食べたい土佐っ子庶民はその反骨心から表面を炙ったカツオを「これは焼き魚ぜよ」と称して堂々と食べたと笑い話になっている。
正式な土佐藩の記録には生食の禁止令は記録がないので俗説だとされる。おそらく土佐に伝わる「焼き霜造り」「刺身タレ」「薬味」など磯魚食の調理法がカツオのマカナイ飯として発生し、鰹節の製法の伝播に伴って東海地方や伊豆湘南、房総半島方面に拡がって行き、江戸でのカツオのたたき大ブームへと繋がっていったのだと思われる。
しかし何故「たたき」と呼ぶのだろう。
アジやイワシの生の身やマグロの中落を薬味と共に包丁でよく叩いて粘りのあるミンチ状にして食べる製法を「叩き」と言い、特に味噌を混ぜると「なめろう」と言うが、「アジの叩き」と「カツオのたたき」は全く違う料理方法だ。
このカツオのたたきの語源を高知県須崎市の道の駅かわうその里の「多田水産すさき店」の中の人に質問したところ、非常にわかりやすく説明してもらい疑問が解けました。改めて感謝いたします。
伝統的なカツオのたたきの製法は、「カツオに塩を振って、藁などの強い火で炙る」だそうで、そのままだと塩味が強すぎるので塩を落とす必要がある。
タレを掛け回す際に「指の腹でタレを溜めて、タレを均等に振りつつ指の背側をカツオに”たたき”、塩分を振るい落とす。大皿に移したり竹簀や板で余分なタレを落として盛り付ける。
またタマネギなどの薬味にタレを掛けつつ叩くと薬味にタレが馴染んで一体感が出る効果がある。
現在では見栄えが悪くなるのでお店では出さなくなったそうだ。
こんな完成度の高い刺身の調理法の細かいニュアンスは、広島の人間では全く想像もつかないものだった。
改めて土佐の魚料理の幅の広さを感じる。
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