サメとコチ

マゴチやイネゴチ、ワニゴチなど"コチ"の仲間は頭が平べったくて身体は細長く、砂地の海底にぴったりと伏せて身を隠し小魚などを襲うフィッシュイーターだ。

ヒラメと並ぶサーフのフラットゲームで人気のターゲットとなっている。

しかし大きな河口などの汽水域でのルアーゲームや、常夜灯の効いた堤防や漁港の内部でのライトソルトでもたまに釣れるゲストでもある。

食べても弾力のある白身魚でとても美味く、旬とされる真夏のマゴチは「照りゴチ」と呼ばれ喜ばれる。

フラットフィッシュの特徴は上側の模様は海底の砂にそっくりな茶色で、裏側は真っ白で石に当たっても平気な非常に丈夫な皮となっている。


一般の釣り人にとってコチ科の種類はあんまり関心が薄いようで、「マゴチじゃない変なコチ釣れた。」とか「これワニゴチじゃん!(実はイネゴチ)」とか、細かい種類分けはあまり問題ではない。

しかし慣れてしまえば、同定は眼の「虹彩皮膜」で簡単に見分ける事ができる。

例えばマゴチは眼の形が”ハートマーク”になっていて、トカゲゴチは複雑に分岐した”樹木状”となっていて非常に特徴的だ。

なぜ眼の虹彩皮膜が種によって大きく違うのだろう。

おそらくフラットフィッシュは「眼だけ」出して身体は砂に擬態しているので、オス達は同じ種のメスだと判断するのには「眼の違い」を分かりやすい判断基準としているのではないだろうか。

産卵期となるとオスが複数、メスの周りに集結し、盛んに飛び上がってメスを誘う。

すると「卵を産もうかしら」とヤル気になったメスも飛び上がって海面へ向かって泳ぎだす。

オス達もメスを追って浮上して、身体をくねらせたり放精したりメスの放卵を促し、それによってメスは海面付近で大きく反転して卵を放出する。

コチの漢字である「鯒」は「踊る魚」という意味からだとされているが、産卵期の行動が元となっているのではと釣り人は想像する。


さて「コチ」の和名の由来は『大言海』(1932年 大槻文彦)によると、「姿形が”笏(コツ)”に似てるから”コチ”と名付けられた。後の世に(コツ)が骨に通づるので縁起が悪いので、笏の読みを変えて(コツ)が(シャク)となった」と説明されている。

「笏」とは束帯を着用する際に持つ板で、元々古代中国の官人が忘備録の書付の為に持つものが6世紀頃に日本に伝わり、後に正式な装備品とされた。

奈良時代に唐風文化の一つとして笏が伝わり、大宝律令など朝廷の正式な様式が定まっていく時代に、魚の名前として当時コツと呼んでいた宮廷人や神職が持っていた笏を見立てている。

そして平安時代に大和風文化が定着して、宮廷の女房達の間で"名前の言い換え"が流行る頃に笏(コツ)が(シャク)に変わってしまい、魚の名前のコチだけ取り残されてしまったということとなる。

要するにコチの命名は奈良時代だと特定されるのだ。

しかも大変珍しく、中国大陸の官僚体制の作法が漢字と共に伝わった際の、その道具名が命名の元となっている。


日本人に馴染み深い多くの魚は、縄文時代から万葉仮名の時代までずっと「やまとことば」で言い表されていた。

その魚を表す最も特徴的な…身体の特徴や魚の性質でもなんでも、それだけですぐに分かる名前。

コチもおそらく各地でピッタリの呼び名が考え出され、様々な地方名で呼ばれていただろう。

ほぼ全ての一次魚名は古来からの大和言葉が語源である…しかし「コチ」は例外なのだ。

奈良時代、庶民にとって「笏」はあまり馴染みの無い物だっただろう。地方では見たことがない人がほとんどだったはずだ。

なぜか奈良時代に、突然上級役人が知る「笏」を基に命名されている。

それはなぜだろう。何か秘密がありそうだ。


さて「コチ」は一旦置いて、突然思わせぶりに「サメ」の語源を探ってみようと思う。

サメは軟骨魚類のうちエラの縦裂が体の側面にあるグループの総称となっている。

世界中の海洋に広く分布し、多様な生態に別れて種類が豊富である。

サメといえば「獰猛で人を襲う」イメージだが、実際に起きた事故はホホジロザメなどで人を襲う種類は少ない。

しかし外海での大型オフショアゲームや沖磯での泳がせ釣りで、せっかくの魚がサメに横取りされて非常に厄介者だ。

さらに間違って大型サメが釣れたらタイヘンだ!

大きな体と鋭い歯があるので取り込みが難しい上に危険。持ち帰るのも解体が大変なのでほとんどの場合リリースとなっている。

一方で瀬戸内海ではマダイやカレイを狙った投げ釣りなどで、たまに「ホシザメ」「シロザメ」など小型のサメが釣れたりする。が、こちらも残念ながら外道とされリリースされる。

しかしかつてはまとめて「のうくり」と呼ばれ、おいしいお刺身の魚と利用されていた。


サメのつく言葉として「サメ肌」や「サメ皮」が有名だ。

どちらも関係があって、サメの皮には「楯鱗(じゅんりん)」と呼ぶ特徴的なデコボコがあり、ヤスリやおろし金に利用された歴史がある。

特に”ワサビおろし”へのサメ皮の利用は、「本わさびの味が良くなる。」と言われ本格派も認める商品だって!…ほんとかな?

さて近世から世間一般へ広まった誤解として「日本刀の柄に貼る”鮫皮”」はサメの皮と思われているが、本当は外国産アカエイ種の皮を使うのだ。

『鮫皮精義』(1785年 浅尾遠視)という書物に、「古来から刀剣の鞘の飾りとして鮫皮を使う。」という伝承の根拠として漢文と皮の図を掲載しているが、その皮の形が完全にアカエイの姿形で、明らかにエイの皮を「鮫皮」と呼んで使うのが昔からの習わしと分かる。

アカエイの皮を鞣した「エイ革」は海外では「ガルーシャ」と呼ばれる超高級皮革素材だ。

残念ながら日本近海には皮を利用できるアカエイ科は生息せず、東南アジア諸国に生息する「ツカエイ」などのアカエイ科の輸入品を使用する。

ビーズのような粒は「皮歯」と呼ばれるリン酸カルシウムが主成分の粒子で非常に硬く強度にすぐれ、革は水や汚れを通さず長持ちする。

そして「星」「天眼」「スターマーク」と呼ばれる、エイの背中の中央にある光を感知する器官の楯鱗はひときわ白く大きいので、これを中央に配置するようにデザインする事が多く、これがさらにエイ革が貴重となる要因となっている。


明治時代に東大寺大仏殿の大仏の足元から、二振りの刀剣が出土し「金銀荘大刀」と名付けられ国宝とされた。

2010年に分析の結果、聖武天皇の遺品「陽宝剣・陰宝剣」と1250年ぶりに判明した。

聖武天皇の崩御後に光明皇后が遺品として東大寺大仏に奉納した二振りの刀剣が、後に正倉院に納められて正倉院宝物目録にも記載された事が分かっているが、759年に持ち出された以降行方不明となっていた。

出土した刀剣はおそらく光明皇后が崩御される直前に、「大仏と一体となって日本国を見守る」ことを願って大仏の下に埋納されたものと推察される。

この宝剣の柄にはエイの鮫皮が巻かれていたと判明している。

さらに正倉院の御物には「貴族のみ許される」とされるエイ革を用いた「金銀鈿荘唐大刀」という宝剣が収蔵されている。

そして江戸時代「大名だけが所有できる」といわれる、高級な刀に使われる「梅花皮(かいらぎ)」というのは、インド洋周辺に生息する「イバラエイ」の皮であり、非常に珍しいもので当時でも高額な輸入品となっている。

先ほどふれた「ワサビおろし」の鮫皮も、実は使用するのは「カスザメ・コロザメ」「ウチワザメ」「シノノメサカタザメ」といった"姿がエイに似ている底生生活タイプ"の皮である。

カスザメやコロザメはサメ類だが、ウチワザメやサカタザメはエイ類だ。

サメとエイの違いは、エイの鰓裂が身体の下面にあり眼の後ろに水の取り入れ口である噴水孔が開いている点だ。


ところでサメの語源として有名なのは、『東雅』(1719年 新井白石)に載っている「狭目」だ。

江戸時代の国学の発展により、日本語の発音と意味に関する研究が進んで、日本語の「さ」という音は「細長い・狭い」という意味がある…という説をもとに、「目が狭い」からサメと命名されたと説明している。

…???となった人は多いだろう。サメの目が狭いとはちょっとわけがわからないよ…

なので『柴門和語類集』(江戸後期 菅原泰翁)では「小さい目」として、体に比べて目が小さいからだとしている。

…だとしてもあまり納得できない説だ。


サメは万葉仮名では「佐米」と書かれ、藤原京跡や平城京跡から出土した木簡にも「佐米」と書かれていた。

木簡には「参河国(三河のこと)、佐米楚割(すはやり、楚(すわえ)のように細く割ったものという意、”すわわり”の転。魚肉を細長く裂いて干したもので、削って食用とする。)」とある。

広く食用にされる「アブラツノザメ」は元々「アブラザメ」と呼ばれて現在でもその名で流通している。

やや冷たい海を好むので東北地方や北海道が産地とされている。

延縄漁で捕獲されたアブラザメは、漁港の浜上げで直ぐに皮を剝き頭と内臓を取って「棒ザメ」と加工され関東地方に出荷される。

特に栃木県では「さがんぼう」と呼んで珍重する。語源は「ツララのように軒から下がるから」といわれるが詳しくは不明だそう。

う~んなるほど、食用種のサメは、生肉としても干し物でも、加工される時は「細長く」割るのが作法というか伝統的な手法のようだ。


さて更に調査を進めよう。

『出雲風土記』(733年 神宅臣金太理かんやけのおみ かなたり)の島根郡の記述のところに、外海と内海で獲れる魚の名前を列挙している。

外海は日本海側で、内海は中海であるが、中海は当時海水準が高かったので「飫宇の入海」と呼ばれる海の湾で、境市と米子市付近で2つの水道となって日本海とつながり、弓ヶ浜は「夜見嶋」と呼ばれていた。

飫宇の入海は、日本海より若干海水塩分濃度が薄い湾奥の汽水域で、内海の汽水に対応した生物が主に生息していたと思われる。

「凡北海所捕雑物、志毘・朝鮐・沙魚・烏賊・虫居虫者・鮑・栄螺・蛤貝〔字或作蚌菜。〕・蕀甲蠃・〔字或作石経子。〕甲蠃・蓼螺子〔字或作螺子。〕・螺蠣子・石華〔字或作蠣、犬脚也。或犬曠。犬脚者勢也。〕白貝・海藻・海松・紫菜・凝海菜等之類、至繁、不可令稱。」

「およそ北海で捕れるものは、マグロ類・朝鮐・沙魚・イカ・タコ・アワビ・サザエ・ハマグリ・ウニ・ヒトデ類・ニガニシ・カキ・カメノテ・カガミガイ・ホンダワラ・ミル・ムラサキノリ・テングサなど、とても種類が多く名を全て挙げられない。」

「凡南入海所在雑物、入鹿・和爾・鯔・須受枳・近志呂・鎮仁・白魚・海鼠・魚高鰕・海松等之類、至多、不可令名。」

「およそ南の入海にいるものは、イルカ・和爾・ボラ・スズキ・コノシロ・チヌ・シロウオ・ナマコ・エビ・ミルなど、いたって多くて名を全部は挙げられない。」


また秋鹿(あいか)郡の条にも外海と内海の海産物が記載されている。北海は日本海で、内海とは宍道湖である。

宍道湖は、奈良時代ではまだ斐伊川は「神門水海」へ流入し、また松江市付近で飫宇の入海とつながり海水が出入りしていて、塩分濃度がかなり薄いが淡水ではない「汽水湖」であったと科学的に推察されている。

「南入海。春則有鯔魚・須受枳・鎮仁・魚高鰕等大小雑魚。…

…凡北海所在雑物、鮐・沙魚・佐波・烏賊・鮑・栄螺・貽貝・蚌・甲蠃・螺子・石華・蠣子・海藻・海松・紫菜・凝海菜。」

「南は入海である。春はボラ・スズキ・チヌ・エビなど大小様々な魚がいる。…

…およそ北の海にあるものは、鮐・沙魚・サバ・イカ・アワビ・サザエ・イガイ・ハマグリ・ヒトデ類・ニシ・カメノテ・カキ・ホンダワラ・ミル・ムラサキノリ・テングサ。」


この海産物の中で注目すべき魚名を詳しく解説してみる。

「鮐」は研究者で意見が分かれている。

フグであるとする説とサメまたはカワハギとする説だ。根拠としては皮を利用するかららしい。

”鮐”という漢字は古代中国大陸ではフグを意味する。『新漢和辞典』によると「鮐背(タイハイ)」とは年を取ってフグのような模様のシミが広がった老人のことを言う。

しかし平安時代の日本語では、『本草和名』(918年 深根輔仁)や『倭名類聚抄』(931∼938年 源順)に「布久(フク)」または「布久閉(フクベ)」と記述はあるが「鮐」は使用していない。

出雲風土記では「朝鮐」と「鮐」と二つの種類を述べているのも注目すべき点だ。

「鮐・沙魚・和爾」とそれぞれ書き分けているのに、全てサメだとするのはおかしいのではないか。

『延喜式』(927年 藤原時平・忠平ら編)では「鮐皮」の記述があり、但馬・因幡・伯耆・出雲の山陰道の国から皮を貢納している。

皮を刀剣に利用するのはサメではなくエイであるので、「鮐」はエイのことではないだろうか。

更に、『万葉集註釈』巻第二の『壱岐国風土記』逸文の鯨伏(いさふし)の郷の由来に、

「昔者 鮐鰐追鯨 鯨走來隱伏 故云 鯨伏 鰐並鯨 並化為石 相去一里 昔者俗云鯨為 伊佐譯注 鮐 原為海魚 亦有年老之意 此以鮐鰐引作大鰐也」とある。

「 鮐鰐」と続けて「大きな鰐」としクジラを追っかけたとされる。フグは有り得ないしサメもカワハギもおかしい。鮐はエイしかない。

「エイワニ」は巨大種であるノコギリエイか、頭が平たく星模様のあるジンベイザメだろうか。

そして皮を利用する「カスザメ・コロザメ」「ウチワザメ」「シノノメサカタザメ」の類を「鮐」と呼んだのだろう。

おそらく朝鮐は「朝=東雲」なのでシノノメサカタザメだろうと思う。

ちなみにエイの総排出腔の形が人間の女性器に似ているために「傾城魚」の別名がある。

傾城とは”あまりにも美しく国を滅ぼすほどに権力者に寵愛された女性”で、猛毒の棘を持つことで命を落とす危険性も意味している。

「胎」は子宮をさすので、たぶん「鮐」とは”女性器を持つ魚”と解釈されたのではないか。


「沙魚」が問題の魚名だ。中国大陸では、元々沙魚や鯊とは「すなふき」として、ハゼ類や砂地に生息する魚類を指していた。

しかし後になって”サメ”にもこの字を当てるようになった。

なぜ中国大陸では後に沙魚がサメになったのかといえば、「サメの皮が細かい砂のような粒子を持つから」と説明されている。

『大和本草』(1708年・貝原益軒)の「フカ」の項目には、「フカ 其類多シ 凡フカノ類皆アギノ下ニ口アリテ其皮ニ”サメ”アリ」と記述があり、「フカの皮には”サメ”がある。」という説明がなされている。

おそらく「目」とは表皮の楯鱗を指していて、「細かい粒子=沙目」こそがサメの語源であろうと思われる。

刀剣に使用される硬くて丈夫な「エイ革」には使用できない、細かくて絹のように柔らかい皮…沙目を持ったフカの類を、徐々に「さめ」と称していったのではないだろうか。

出雲風土記に記述される「沙魚」は、年代から中国の新しい漢字を採用していておそらくサメのことだろう。

古代の兵の盾は、木で板を作って表にサメの皮を貼り付けて”楯”に作成されたとある。

高級な外国産ツカエイの皮やカスザメ類は刀剣の柄に使ったが、楯には入手が容易な普通のサメの皮を使ったのではないか。

では「和爾」は何物だろうか…たぶんそれは「フカ」かもしれないが、筆者は別のある生物を候補として考えている。

そして「ふか」の語源も謎だ。…別の機会で探っていこう。


しかしなぜ「狭目」と新井白石は書いたのであろうか。

東雅は「或る人曰く」と昔のことの伝聞を記述するスタイルとなっているので本人には間違いはない。

推理した結果、古い時代にサメとコチとを取り違えて伝承されたのではないかと考える。

コチは現代では非常に美味しい高級食用魚ではあるが、江戸時代まで「食べてはいけない」忌避される魚であった。

『大和本草』には、「性好からず、人を益するなし、或は曰はく、蛆化してコチになるもの稀にあり」とウジからコチに変化するとか酷い扱いの言い伝えを引用し、また『本朝食鑑』(1697年 人見必大)にはコチを食べた妊婦が人事不省(じんじふせい・昏睡状態に陥り意識不明になること)になった逸話を紹介している。

なぜ食用を避ける魚とされたかというと、その理由は「”目が狭い”ので食べると目が悪くなる。」と古い言い伝えがあるからだろう。

『魚貝能毒品物図考』(1849年 青苔園)や『和歌食物本草』(1630~1694年重版)には「コチを食べると目を患う。」と述べられている。

近年になるまで各地の漁村の漁師たちにも「目が悪くなる」としてコチを忌避する風習があった。

マゴチのハート型やトカゲゴチの樹木状の眼の虹彩皮膜を見た古代の日本人は、とにかくビビったのだろう…これはもう仕方ない。旨いのにね。


平安時代に編纂された『延喜式』には、「許都魚(こつうを)皮」として山陽道の備前・備中・備後の3国で貢納せよと記述されている。

「こつうを」とは間違いなくコチのことだ。

しかしながら『日本魚名の研究』(1959年 渋沢敬三)では許都魚は皮を利用するのでサメであると推察している。

これは明らかに間違いだ。

いくらなんでも瀬戸内海の岡山県南部と広島県備後地方で、皮を効率よく利用可能な大型のサメが捕獲できないし、そもそも大型サメは生息していない。

更に同じ延喜式の肥後国の中男作物に「鮫楚割」と記述されている。

『日本魚名集覧』(1958年 渋沢)の「エドアブラザメ」の項で「備後鞆ではこれを”コツウヲ”と呼ぶ」と記している。

エドアブラザメは深海のサメで食用ではないし、たぶん間違えてアブラツノザメのことだろうと思われるが、もちろん瀬戸内海ではアブラツノザメは生息しないし備後ではアブラツノザメは食べないしそのような地方名は存在しない。

なぜか新井白石も渋沢敬三もコチとサメを間違えている。なぜなんだ。理由があるはずだ。


もしかして…もしかしてだが、とても古い時代ではコチこそを「さめ(狭目)」と呼んでいたのではないだろうか。

あの"ハートや樹木型"の目…アレこそコチ類の見分け方かつ言い伝えの根拠なのだ。

コチの腹の皮はフラットフィッシュであるので海底との接触に非常に強く頑丈だ。

こちらの方こそが本家本元の「狭目皮(さめがわ)」として宮廷の日用品の皮革として利用されたのではないか。

かなりややこしい話ではあるが…律令制が徐々に整う奈良時代、「ふか」と呼ばれた軟骨魚類が徐々に「さめ」という呼称に置き換わってきた。

その為元々「さめ」と呼ばれ食べると目が悪くなるとされた魚を、都の役人が「笏に似ているから”コツ”(許都)」と改名した…

様々な文献残されたサメの矛盾する謎と、コチの言い伝え。

これらコチとサメの謎を紐解いてひとつのストーリーとなったと思うがどうだろうか。

釣り人語源考

魚の語源や海の地名の由来など 釣り人目線での語源考です。

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