マテガイ
植物の名前の由来を考察される人は多い。
魚よりも身近な存在である草木は、四季によって花も咲くし葉も落ちるから古来から鑑賞されたり和歌に詠まれたりする。
食料や医薬品に利用されたり、建築材や日用品の原材料になるので、古くからの文献や口碑が残り非常に資料が豊富である。魚と違って、植物の語源の考察はほぼ正確だと考えて間違いない。
しかしたまに珍妙な…魚介類が関わる植物の語源説は特に珍妙なものがある。たぶん和歌を能く識る都会の文化人は野原を散策はしても、釣りや漁などは全くした事がなく市場で見かけるだけだったのだろう。
ブドウ(葡萄・エビ)の語源は海老で海老の語源は葡萄とか、ゴンズイ(木)の語源はゴンズイ(魚)とか、こういう類いはガセが多い。
(詳しくは「エビ」「ゴンズイ」の由来をご覧ください)
「マテバシイの由来」という鉄板面白エピソードが植物語源界隈に存在する。
「マテバシイの葉っぱが、"マテ貝"に似ているからというのが由来らしいけど、全然似てないよね笑笑」というのが内容だ。
続けて「マテバシイのマテは九州の方言らしい。マテ貝は"馬刀"で中国語だって。」で終わる。
まあな…貝なんて興味無いからそんな説でも信じるよね。
貝類は古くからとても重要な食料であった。間違いなく石器時代から日本民族はずっと貝を食べている。
縄文時代となると貝塚からも分かるように組織的に採取されるようになっている。皆で干潟を漁る貝なので「アサリ」と呼ぶのだろう。
貝の名前は縄文時代から存在するはずだ。
「マテバシイ(馬刀葉椎・両手葉椎)」はブナ科マテバシイ属の常緑広葉樹高木でシイ属とは近縁別属である。いわゆる"ドングリの木"でありアク抜きせずに食べる事が出来る堅果がなる。
温暖な沿岸部に自生するが本来の自生地は南九州沖縄地方であると言われ、四国や本州は植栽されたと思われる。現在では街路樹や公園神社などによく植えられている。
由来とされる「葉がマテガイに似ているから」というのは、よくよく調べてみると伝え間違いがあって提唱した人は葉ではなく"実"の方をマテガイと似ていると主張していた。葉は全くマテガイに似てないのは当たり前なのだ。
昭和43年に編纂された"植物研究雑誌"第43巻第7号に載っている東京大学理学部植物学教室の前川文夫教授の論文で提唱され、マテバシイ・スダジイ・ツブラジイをそれぞれマテガイ・シダタミ・ツブと貝の名前と関連付けした説だ。縄文時代の貝類とドングリを、姿名前が似ているからと空想した、なんとも珍妙な話であるのは変わらない。東京大学からしばしば珍妙な説が出るのは伝統だろうか…
また別の説(牧野富太郎)では「両手」は「真手」の別字とされ「まて」と読むが九州の方言であり由来不明とされる。和歌を能く識り古代人の思考を熟知する牧野博士なら間違いないとは思うが、マテバシイは元々九州沖縄のみ自生していたのでマテは方言ではなく古くからの言葉であり、植物のマテバシイが地域限定的であっただけだと思う。
「マテガイ」はマテガイ科マテガイ属の二枚貝で、独特の潮干狩り方法で人気だ。
干潟の表面を薄く鋤き取り"目"と呼ばれるマテガイが潜って作られる穴を探して、そこに塩を振る。
するとマテガイが水管をピロッと出してくるので、それを素早く掴んで引きずり出すのだ。超面白そう!やってみたい!
マテ貝を漢字で書くと「馬蛤貝」「馬刀貝」となるが、万葉仮名で「末天乃加比」と書かれているので古くは「まてのかひ」と呼ばれていたことが分かる。
マテ貝の「マーダオ由来説」は"相模貝類同好会"での発表した文章が発端らしい。
マテ貝の漢字表記である「馬刀貝」の馬刀を調べたら中国語の馬刀に行き着いたようだ。
馬刀(マーダオ)はよく創作で目にする斬馬刀とは違って、騎馬兵が佩刀する軍刀の事である。
支那大陸でのマテ貝の呼び名は「蟶」または「竹蟶」、そして「馬刀」となっている。明らかにマテガイの形から馬刀に例えた名前だ。
だがしかし、日本での古くからの名称"やまとことば"と、それを漢字で表記したものでは順番がちゃんとある。
やまとことばである"まてのかひ"が古くからあって、奈良時代や鎌倉時代となってから支那の辞典や辞書を和訳して日本の生物に漢字をあてたのであって、漢字を元にして語源としたのでは大きな間違いである。たまたま「まてがい」と「マーダオ」の「ま」の音が近いだけで、順序を逆にしてはならない。
貝の名前のうち、「あさり」だとか「しじみ」だとか、「あわび」「さざえ」など"貝"が後ろに付かない名前と、「からすがい」「みるがい」の様に貝が付く名前がある。
ご察しの通り、貝が無いと「カラス(烏)」「ミル(海松)」と別の物となるからである。
という事は「まてがい」の「まて」は別の"まて"と呼ばれる何かが名前の由来だという事となる。
さて和歌には「枕詞」というものがある。
特定の言葉を導き出すのに使い、和歌の調子を整える効果がある技法だ。
その枕詞の一つに「海人の両手肩(あまのまてがた)」というのがあり、その由来を巡って平安時代に考察されている。
〜(「まてがた」は両手両肩の意) あまが潮水を汲み入れて運んだり、藻塩草を刈り集めたりするとき、両手両肩を使って忙しく働くこと。「いとまなみ」「かきあつむ」などに、また、同音で「待て」などが続く。
※後撰(951‐953頃)恋五・九一六「伊勢の海のあまのまてがたいとまなみながらへにける身をぞうらむる〈源英明〉」
[補注](1)語源および、かかり方には(イ) 藤原定家の「三代集之間事」では、藤原基俊の説として、海人がマテ(馬蛤)という貝をとるのは、砂に出来たマテのもぐった跡を目印にして取るので馬蛤形といい、その労働はわずかの暇に忙しく貝をとるので「いとまなみ」と続ける。(ロ) 藤原清輔の「奥義抄」や顕昭の「六百番陳状」の説では、「まてがた」は「まくかた」の誤りで、製塩後、砂を潟に播くことをいい、これを干潮の間に急いで行なうので「いとまなみ」と続ける。(ハ) 「まてがき」の誤りで、あまが泳ぐときには左右の手で休みなく水を掻くので、「いとまなし」と続けるなど、諸説ある。
(2)「日葡辞書」には、「製塩用の道具」という説明がある。
「まてがたにかきつむあまの藻しほ草けぶりはいかにたつぞとやきみ」〜
ここでも"マテガタ"に諸説あり、「マテ貝の潜った穴説」「製塩の砂を播く説」「泳ぐ時の両手説」「製塩用の道具説」とある。
各説を総合的に推察すると、どうやら藻塩用に海藻を海中から絡めて集めたり、砂浜で海藻を広げたり、天日塩用の砂を撒いたり、そしてマテ貝を採取するのにも応用した"両手の形の道具"を「まてがた」と称していたのではないか。
鉄や竹を曲げて掻く形だと"熊手"と呼ぶ。髪をすくのは櫛だが土をすく爪を付けた鋤。それらとは少し違う直線的な鉄や竹の細棒を放射状に柄に取り付けた形状だと思われる。現代の「サザエ突きん棒」と同じような構造じゃないかと。
両手を合わせ、指を開いた状態を「両手(まて)」と呼んで農具や漁具の名前としたはずだ。
身体の名称が農具名となる例は、足首の事である「くわ」が「鍬」と命名されたのが有名だ。「企てる」というのは「足首を伸ばして遠くを見る」が由来である。
「まて突き漁」という漁法がかつてあり、沖合の砂地の海底10mまでの水深でも採取出来るそうだ。
漁の仕方は弓矢の矢のような1メートルの鉄の針20本を一組にして、船上から砂底に突き刺すように上げ下げする。鉄針が潮に流されないようにそれぞれに大きな鉛がついている。総重量25キロ。それを1人で操作する重労働である。マテガイは次の貝が刺さるたびに徐々に上にあがり、一つの針に10個以上も串刺し状態になって採れることもあった。船を流しながらの1回の漁で15キロも採れることがあった、という。
大分県国東市や愛媛県伊予大島宮窪町に"まて突き唄"という民謡が残っている。国東市のまて突き唄は非常に重労働であった事がわかる。
まてつき唄
アリャ嫌じゃ母さんヨーイ
まて突き嫌じゃヨーイ
(アリャドッコイショドッコイショ)
アリャ色も黒うなりゃヨーイ
腰ゃかがむヨーイ
(コリャヨイコラヨイヨイヨーイヨイ)
アリャ豊後北江のヨーイ
まて突き音頭ヨーイ
アリャあとが続けばヨーイ
みな勇むヨーイ
アリャ寒い北風ヨーイ
冷たや北風ヨーイ
アリャ吹いてぬくいのがヨーイ
南東まじの風ヨーイ
アリャ泣いてくれるなヨーイ
出船の時はヨーイ
アリャからす鳴いてさえヨーイ
気にかかるヨーイ
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