謎の「和邇」(下)
(中)のあらすじ
「和邇」はもしかしてチョウザメかもしれない…
さて古事記の海幸山幸の話に登場する「一尋和爾(ひとひろわに)」は、海神の宮から火遠理命(ほおりのみこと)を一日で地上まで送り届けて帰って報告出来ると海神に言い、約束通り送り届けた。その時火遠理命は身に着けていた紐刀を解き一尋和邇の首に着けてお返しになられたので、現在でも「佐比持神(さひもちのかみ)」と呼ばれる…とある。「佐比」は内容から小刀である。また日本書紀では「鋤持神」と表記され鋤も鋭い刀剣を意味している。
これまでサメ説の根拠では速く泳ぎサメの鋭い歯を小刀に比喩しているとして和邇=佐比持神=サメとされていたが、日本書紀では「韓鋤」「句禮能摩差比(くれいのうまさひ)」と朝鮮半島から伝来した宝剣を鋤(サヒ)と呼んでいたと思われ、ゆえに鋤持神は「宝剣を持つ神」のこととなる。
朝鮮からの宝剣の柄や鞘には間違いなく蝶鮫皮と菊閉皮が使用されていたはずだ。「佐比持神」はまさしくチョウザメだろう。
また日本書紀では神武天皇の兄である「稲飯命(いないのみこと)」が神武東征に従うが、熊野に進むときに暴風に遭い「我が先祖は天神、母は海神であるのになぜ、陸に苦しみ海に苦しむか」と言って剣を抜いて海に入り鋤持神となったと伝える。
天神の子孫と海神の娘が生んだ初代天皇の兄が、「神の魚(カムイチェプ)」に転生したのだから獰猛なイメージのサメはちょっと相応しくない。せっかくなら神魚チョウザメにして欲しい。
『古事記伝』(寛政10年 1798年)は江戸時代の国学者・本居宣長が35年の歳月をかけ記した古事記全編の註釈書である。
因幡の白兎の「和爾」を解説した部分で宣長は、「北国の海には今も和爾が多い」と記述している。
…「北国の海に、今も和邇多しといえり、また、はるか西の外国に、この魚多きところありといえり」
このことに関して現代の研究者たちは「『和名抄』の鰐の項を引用して説いているのでちょっとした勘違いしただけ。宣長はワニ説だ」と宣長の”北国”の言葉を無視している。
しかし変なのは宣長ほどの博識の大学者が、博物学が発展した江戸時代の後期だというのに「日本の北国には今だにワニ(爬虫類)がいる」なんて言うのかという疑問だ。”今だに”なんて使うのは明らかにおかしい。宣長がワニ説ならば「今はワニは日本にいない」と言うはずだ。
また宣長は「はるか西方の国に"この魚"がたくさん棲む」とまで言っている。和邇は魚類だと断定しているのだ。
宣長は古事記を研究した結果、和爾の正体はチョウザメだと知っていたのではないか。
宣長が当時刀剣用の皮「菊とぢ鮫」としてチョウザメを松前藩が幕府に献上していたのを全く知らないなんてあり得ない。(松前藩の菊閉献上の記録は享保2(1717)年が最古らしい)
それでは日本語「わに」の語源は何だろう。
「とら」とか「きさ(象の訓読み)」など、日本に生息していない生物の大和言葉が存在することはとても不思議であり、普通に考えるとこれらは支那や朝鮮などにあった古代王朝や各民族からの”借用語”であろうと思われる。
筆者はやはり「和邇氏」が由来だろうと考えている。
日本書紀では「和珥氏」として第5代天皇「孝昭天皇」の第1皇子である天足彦国押人命からの出自とされるが、おそらく皇別氏族とあるのは創作で、崇神天皇の時代に百済から渡来した一族だろう。
当時、朝鮮半島南部は激動の時代で、「新羅」「百済」「伽耶(任那)」とそれぞれが権謀に動き、それを利用して国力増強を図った大和王権は百済から製鉄と造船の技術を持つ一族を向かい入れた。
その一族の名は「王または丸(hwanワン)氏」という。
実は「丸」と書いて「わに」と訓み、「丸氏」や「丸邇氏」は「わに氏」であると姓氏録や寺社縁起など古書は伝えている。
和邇はその通り万葉仮名なので、だんだん丸(わに)が訓めない人が増えたので和邇と変えたのだろう。
そして応神天皇の皇子「菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)」の家庭教師として招きいれた人物は日本書紀では「王仁(わに)」で古事記では「和邇吉師(わにきし)」と伝えられている。
ちなみに比較言語学が発展して、古代日本語では外国語を借用するとき語尾に母音を付け足すという法則があることが分かっている。
なので「hwan(ワン)」に「i(い)」が足されて「hwani(わに)」になったとする説がある。
熊本市にある「鰐瀬」の正しい読みは「わんぜ」だそう。
また船の名前に~丸と付ける由来は和邇氏にあるとされる。
製鉄技術はまさに国家の興亡を左右する。
刀剣はもちろんのこと、鋲を作ることは鉄板や革をつなぎ兵甲を作り、釘は木材をつなぎ軍船を作る。
そして鋤鍬は田畑を拓いて食料を作る。
「刀剣」「鋲」「船」「鋤」、そして王しか持てない「蝶鮫皮の宝剣」。
このチョウザメと鉄の奇妙な一致は偶然ではない。
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